土佐檮原から国境を越え,伊予長浜から周防三田尻を経て長州へと坂本龍馬が脱藩疾走したのは文久2年(1862年)。およそ80年後の昭和16年(1941年),故郷 周防大島から船便にて八幡浜に渡り,同じく韮ヶ峠を越えて檮原へと逆ルートを踏査し,「土佐源氏」を著した宮本常一。73年の生涯で延べ4千日,16万キロ(地球を4周)の道を歩いた(佐野眞一「旅する巨人」)民俗学者は,道づくりの人でもあった。
愛媛県西予市城川から四国カルストへと通り抜ける観光ルートとしても利用されている通称「林道 東津野・城川線(西線)」。東線と合わせて全長41.9キロの2車線の道は,昭和48年に四国西南山地大規模林業圏開発林道事業として着工され,平成8年に開通式を催行。
「林業開発だけでなく,四国カルスト高原地域の観光開発や畜産振興にも大きな効果が期待されている。」(城川町誌(続編))
当時開発が予定された全国29路線の大規模林道のうち,初めて全線開通をみたのが,この「東津野・城川線」であった。
戦後日本の成長期に,いまだとり残された山村の実情を歩いて見聞し,林道整備の必要性を説いたのも宮本常一。離島振興の第一人者は,林道づくりを唱道した人でもあった。宮本は,昭和29年に林業金融調査会を発足させ,全国200余の山村を歩き,林道は「行きどまり」ではなく「通りぬけ」の道たるべきことを力説した。
峰越しの道をもつ谷ならば,どんな山中であろうとも平地の文化の光が,いつもその谷奥までさしこんでいた。
大切なことは,林道開発が山村を林業村として釘づけにするものであってはならないことである。林道開発は地元民が林業以外に,大きく利用する目的をもつものでなければならぬと考える。
山間に通りぬけ道をつくることによって,観光人口の流動配分の可能とおもわれるところは少なくない。
山地は単なる観光地としてよりも,静かな保養地として,もっともっと利用せられていいのである。(以上,宮本常一「林道と山村社会」)
奥伊予と奥四万十の峰越しの道に歩き疲れたら,宝泉坊の湯につかり,城川の地酒を相伴に龍馬と宮本の往時の面影に浸ってみてはいかが。もちろん銘柄は「城川郷 尾根越えて」(中城本家酒造 愛媛県西予市城川町嘉喜尾)。
文:穂積 薫
宝泉坊ロッジ
(愛媛県西予市城川町高野子64)
https://www.housenbou.net/rodge/
奥伊予・奥四万十の尾根を越え,四国カルストへと通りぬけるルートに便利な木の温もりを感じる宿。城川地区を中心とする奥伊予エリアの振興を目的として運営しています。
バックナンバーはこちら(「風と土と」トップページへ)