人生を通じての邂逅のなかでも,仕事を機縁とするめぐり合いの妙味は,わけても名状しがたい。裁判官,弁護士等の法曹実務者であれば,忘却し得ぬ出会いは,事件を通じてもたらされるのであろうか。
破産再生事件の実務家として著名な園尾隆司氏の場合,村上水軍との出会いは,“国際海運会社の民事再生事件の代理人を務めた”ことにはじまる。“徳島県でありながら,愛媛県にも香川県にも歩いていくことができる四国の中心地(へきち)”であり,銅山川が吉野川に合流する四国山地の最深部 徳島県三好郡山城谷村(現在の三好市)に出生した園尾氏は,当該事件にめぐり合うまで“不覚にも瀬戸内に存在した村上水軍のことを知らなかった”という。
この国際海運会社に係る民事再生事件は

“スポンサー探しが行き詰まり,自力再建か破産かの瀬戸際に立たされていた。その時,突如浮上したのが,瀬戸内の船主群からの資金提供の話であった。その中核は村上水軍の末裔といわれる方々であると聞いていた。かねてより,海運事件をやり遂げるには,瀬戸内の圧倒的な力に着目する必要があると聞いてはいたが,具体的にそれが何を意味するのかまでは,その当時は知る由もなかった”

“倒産手続の申立てをした会社が,第三者から資金提供を受けて再建を図ることには危険が伴う。会社更生申立てをして再建を図ったある国際海運会社は,ヘッジファンド運営会社から資金を調達したが,その後,その支配下で事業が切り売りされ,残ったのはごくわずかの事業とスペース借りをした狭い事務所のみ,とのうわさも聞いていた。そのため,資金提供者が誰であるかが問題となるが,村上水軍グループを中核とする瀬戸内船主群17社からの資金提供条件は,極めて緩やかなものであり,基本は,「海運会社として再建して日本の船主を使う存在になること」ということであった”

再生を遂げた後,園尾氏が当該会社の担当者から話を聞いたところ

“「村上水軍の資金提供は本物です。短期利益を追求するどころか,短期に上がった若干の利益を配当に回そうとしたところ,海運会社の業績は浮き沈みが大きいとして,当の株主から利益を内部留保するよう求められました」ということであった。これほどまでにスケールの大きいことを考える村上水軍というのは,どういう存在で,どういう経営哲学を持つものなのか。これが,民事再生事件終結後の,私の探求の課題となった”

村上水軍と邂逅した園尾氏は,元裁判官として,古代から中世にかけての村上水軍の成立から盛隆に至る諸説について,事実認定を行い,当否を検証していく。
“武装した海運業者”であって海上賊徒に非ざる村上水軍が,近世初頭に忽然と姿を消したにもかかわらず,“世界に名立たる今治海事クラスターにどう繋がっていくのか”この点に,園尾氏は疑問を抱くことになる。

“日本の保有外航船舶の30%がここで保有されており,日本で建造される船舶の17%がここで建造されている。今治に本社や拠点を置いている造船会社のグループ全体では,日本全体の30%を超える船舶を建造している”

“北欧,香港,ピレウス(ギリシャ)と並んで,今治は,世界4大船主都市の一つである。世界4大船主都市には海運業者が集積するが,ここ今治には海運業のほか,造船業およびこれに関連する電子機器製造業,保険業,法律事務所など,多数の海事関係事業が集積している。海運・造船その他の海事関係事業が結び付いた総合的海事都市は,今治のほかには世界に例がない”

なぜ今治にこれだけの海事産業が集積しているのかという疑義に対し“今治の地元では村上水軍の末裔がこれを支えていると信じられている”との回答が常に示されるとのこと。
しかし,園尾氏はこの点に大きな疑問を抱く。

“能島村上水軍が活躍したのは中世後期のことであり,豊臣秀吉の海賊禁止令により,江戸時代を目前にして能島村上水軍は瀬戸内海から退去し,因島村上水軍も同様に瀬戸内から退去し,来島村上水軍も関ケ原で西軍として戦ったために,敗戦により瀬戸内海から退去することになった。その後,今治海域ないしその島嶼(とうしょ)部に村上水軍が存在したという資料・文献は現存しない”

“村上水軍が近世初頭に瀬戸内から退去したあと,江戸時代の空白を経て,明治になって今治海域に海事クラスターが成立し,これに卒然と村上水軍の末裔が関与しているかのように見えるが,そんなことがありうるのかという疑問である”
(以上,園尾隆司「村上水軍 その真実の歴史と経営哲学」)

件の民事再生事件の債権者団が主に伯方島に拠点を置く海運会社であったことに由縁し,伯方島から謎解きを追う中,能島村上水軍と因島村上水軍の後裔たちとの出会いも重なり,園尾氏は解として“村上水軍の経営哲学”にたどり着く。

1000年を超える歴史の激流にもまれ,鍛え上げられた経営哲学が受け継がれる芸予の島。この興亡の海域で,明治の新時代に至り新たな争乱が始まる。“武装した海運業者”に代わり“電気事業の創業者”による,潮流から電流へと戦場を移しての経営争奪戦である。

芸予諸島での文明の光“電燈”の導入は,因島にはじまる。明治45年(1912年)に設立された因島電気株式会社が,大正4年(1915年)にガス力30KWの発電設備をもって,因島一円を供給区域として営業を開始した。この因島電気は,設立早々からして波乱含みであり,点燈までに3年を要することとなった。
発起人となり設立とともに社長に就任したのは,“関西の電気王”とも称された才賀(さいが)藤吉(とうきち)。明治3年(1870年)大阪で生まれた才賀は,叩き上げの電気事業創業者である。大阪電燈株式会社での見習員から始まり,電気界での成功を志して,京都に才賀電機商会を創業したのは明治29年(1896年)。自らも出資者となり全国各地に電燈会社,電気鉄道会社を設立し,急速に事業を拡大。関与した会社は百社を超えるとも言われた。しかし,“無資本の藤吉が,かく急速に事業を発展させるには,資本関係に無理があったことはいうまでもない”。才賀が破綻をきたすのは,まさに因島電気を創業した直後,明治天皇崩御を発端とする。

“かくて翌四十四年から翌四十五年(大正元年)の初頭にかけ,金融上格別変りたる現象はなかった。しかし米価は漸次騰貴し,商品の売行きも好況を示し,前途金融の漸次緊縮を来すべきことが予想され,あまり低率に失せる嫌いのあった預金利子並びに貸出利子の引上げが実行され,そののち金融ははたして漸次緊縮を来したが,財界は何となく前途を憂慮せねばならぬ状勢であった。かかる状勢の際,明治大帝御崩御あそばされ,財界の景気はますます銷沈した。たまたま三井物産会社手形数拾万円の偽造行使発覚し,各銀行は手形取引上厳戒することとなり,才賀商会は金融に行き詰って了った”

“あまりに手を拡げ過ぎ,その関係会社数は八十の多きに及び,数百万円の資金を,これに融通していたから,一般金融の緊縮は,同商会の金融円滑を欠く至った。しかのみならず前記手形偽造事件が発覚したため,各銀行は従来の態度を一変し,永年の取引先に対しても婉曲に融通手形の割引を拒絶したから,かかる手形取引をしていた商工業者の周章狼狽は非常なものであった。才賀商会もその仲間で忽ち窮境に陥り,ついに岩下君等の有力者に救済を乞うこととなった”

“才賀商会の債務総額六百五拾九万円(中略)と聞いて,世人の驚き目を瞠った。明治の末期に,眇たる一商会がこれだけの債務を背負っていたのだから,才賀氏の活躍猛進が,如何に異常であったかが判る”
(田村栄太郎「人物・近世エレキテル文化史」)

北浜銀行の岩下(いわした)清周(きよちか)は,資本金二百万円で日本興業株式会社を創立し,才賀商会の営業及び資産負債を引継ぎ,才賀は一社員として社業に従事し再起を図ることとなった。ところが,北浜銀行に取付け騒ぎが生じ,岩下は頭取を辞任したため,日本興業は破綻。才賀藤吉は大正4年(1915年)7月失意のうちに病没した。同年,岩下は背任等の罪科により告発を受け(北浜銀行事件),大正12年(1923年)大審院の確定判決により懲役に服した。

以上の通り,因島電気株式会社は設立から激流に巻き込まれるのであるが,大正4年(1915年)1月才賀が社長を辞任したことを受けて,大阪で架線材料の販売,設計監督を業とする新井商会の経営者 新井(あらい)栄吉(えいきち)が,社長に就任し,同年5月待望の文明の灯が因島にもたらされる。
因島に電燈が灯ると,生口島,高根島の住民から送電の要望が届く。しかしながら,村上水軍が縄張りとした海峡は潮流激しく,海底電纜を敷設するのは困難。考究を重ねた新井は,鉄塔を建て長さ約3千尺(約909m)の架空送電線による送電を実現した。

“何分架空線の下は尾道四國間の汽船の航路でもあり,斯様なロングスパンの架線をするのは本邦では始めての試みであるので随分緊張した努力を要したが思の外安々と出来上つたのである”

生口島,高根島に電燈が灯ると,次には生名島,岩城島をはじめ近傍の十数群島から送電の要望が届く。新井の因島電気は

“伯方島,大島を供給圏に加え,大正10年3月には大三島電力株式会社を合併し,古くは村上水軍の根拠地であった島々に,あわせて23か町村の供給区域をもつにいたった”(中国電力株式会社「中国地方電気事業史」)

躍進勇ましい新井だが,難題に思いが及ぶ。

“近接の嶋々に鐵塔で導線を架するとも電力の不足を何とするか,富裕なる此等の群島のことだから日に月に需要が増加するは火を睹るよりも明かである。この需要供給の調節を永久に設定するには如何にすれば宜しいか”

ついに新井は,壮大なる構想を企てる。

“然るに茲に端なくも窮すれば通ずるで空前の妙案を掴んだ”

“抑も四國の土地は降雨量全國首位にあるがために水力電氣を起すには最も好都合なところだといふ事は苟も電氣事業に手を染める程の者の知らぬ者とてないところである”

“只四國の國内ではそれ程の電力を消化し得ぬため幾多絶好なる水源地も空しく寶の持朽されの状である。中國筋の電氣業者は可惜この水力の豊富さよと,垂涎切齒の貌で羨むところであつたのだが,予が妙案に達したといふのは,危ぶまれた因島生口嶋間の鐵塔連絡が無事成功し何の故障なしに送電が行われつゝある以上,禪の常套語ならねど一所通れば千所萬所(〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇)である”

“群島の跳石を傳ひ傳うて一歩足を大きく伸ばして四國の土(伊豫國波止濱)と群島の南端馬嶋とを鐵塔で連絡し四國發生の水力電氣を我群島に輸送供給しやうといふことであつた”

“幸ひに四國側では伊豫鐵道電氣株式會社多分の餘力があるから使つて貰ひたいのみならず必要ならば幾何にても水力發生所を增設して需要に應ずると言つて來たし,且他にも數多水源地があるのだから電力の供給の點に於ては大丈夫である”

新井による四国地方水力発電への着眼点は,経済地理的な研究に基づいている。松山市周辺を供給区域とする伊予鉄道電気は,既に土佐との国境近く,仁淀川水系黒川に水力発電所を稼働させていた。新井は,中国地方の水源地としての石見地方と比較し,四国側の優位性を次の通り主張する。土佐の山地の殆どは官有林であり,杉檜が密生し,河水涵養の山林としては理想的であること。伊予側から国道,車馬道が通じているため水力発電所建設費を安価に抑えられること。何よりも,吉野川,仁淀川の大河に象徴されるように,四国太平洋側の高原地は全国屈指の降雨量を誇るとともに,石見地方とは降水期を異にしている。

四国から供給する電力の広島側での需要見通しについて,新井は芸予諸島の需要家はもとより,電力不足に苦悩する広島県内の電気事業者等への供給に触れた上で

“次に是は少しく將來のことに屬するが電力需要家となるべき三大顧客を特筆せねばならぬ。其は呉及廣村の帝國海軍工廠と鐵道省である”

火力発電で賄う呉工廠と広工廠に土佐の水力電気を供給することにより,海軍は巨額の石炭費を節減できるとの理。国有鉄道の電化が議論されている時勢も捉えていた。

“鐵塔兀々として藝備豫の間の島々に屹立し,之に架した高壓線蜿蜒として四國中國を繼いだ暁の光景を御想像ありたい”(以上,因島電氣株式會社「瀬戸内海横斷架空線電力輸送」)

かくして,大正10年(1921年)12月資本金500万円(4分の1払込み)をもって,瀬戸内海横断電力株式会社を設立。因島電気の事業は同社に移譲される。

一方,四国側で発電と送電を担う伊予鉄道電気株式会社。明治20年(1887年)松山の小林(こばやし)信近(のぶちか)が創立した伊予鉄道株式会社と,明治34年(1901年)同じく小林が主導して設立した伊予水力電気株式会社が,大正5年(1916年)両社合併し,存続会社の伊予鉄道が商号変更して発足した。
伊予水力電気の設立と合併消滅に大いに関係するのが,電気王 才賀藤吉。奥方の出身が松山ということも機縁となり,小林を支援し自らも出資して同社の監査役に就任。しかし,同社は才賀電機商会の破綻の影響を受けて経営難に陥る。小林の後任として伊予鉄道の社長に就いた井上(いのうえ)(かなめ)が,伊予水力電気の社長を兼任して,合併を成立させた。井上は伊予鉄道の経営に従事しながら明治35年(1902年)から衆議院議員を3期務めた後,後継者に才賀を指名。才賀も愛媛県郡部選挙区から出馬し3期連続当選を果たすものの,この間に経営破綻し病没に至る。もはや“浮き沈みの大きい”どころの人生ではない。

井上が往時を回顧して称した“名も奇抜なる瀬戸内海横斷電力株式會社”は,“四國今治市の北方波止濱から馬嶋,中戸島,大島,伯方嶋,津波島,赤穂根島,岩城島,井口嶋,因島,向嶋の各島を架空線によって四國中國間送電連絡の鐵塔建造設計”(「瀬戸内海横断架空線電力輸送」)を策定し,鉄塔建設工事に着手。馬島に塔高220尺(約67m),波止浜に210尺(約64m)を誇る送電鉄塔を据付け,大正13年(1924年)鉄塔建設が完工し,架線工事を待つまでとなった。
工事に並行して瀬戸内海横断電力は,広島全県下を区域とする50馬力以上の動力供給権を政府に申請した。井上曰く

“その昔此地を占據せる豪族が海から陸へ其権力を伸ばしたる如く,同會社の新井氏は大に中國本土へ進出を企てた。則ち同氏が我會社より買へる電力を以て廣島電氣會社の勢力範圍たる藝備一面に其供給権を握り同會社の向ふを張らんとしたのである。斯くては一敵國が其領土を掠奪せんとするのであるから廣島電氣が大人しくして居るはづがない”

“両會社の接觸,衝突は危機一髪の間に迫り戰火將に揚らんとする場合となつた” (井上要「伊豫鐵電 思ひ出はなし」)

“しかし,もともと,海上に点在する島々に送配電線をめぐらし,電気を供給する事業は経営的にみて効率が悪く,しかも,松山から尾道まで,海上150㎞をこえる送電線を架設するには多額の設備投資を必要とし(来島海峡の3基の鉄塔工事のみで約37万を要した),その投資効果があらわれるまでの経営面での圧迫は充分予測されるところであった”

“はたせるかな,瀬戸内海横断電力は次第にその経営内容を悪化させ,ついには,資金の欠乏から,社長新井栄吉がその所有株式を手放さざるをえない事態に追いこまれたのである”

“これを買収したのが広島電気であった。大正13年4月のことであるが,その直後,さきに申請していた50馬力以上動力供給権が,尾道・福山両市ならびに周辺郡部において認可されたのであるから,瀬戸内海横断電力,とくに新井栄吉にとっては,皮肉な運命というべきであろう”(「中国地方電気事業史」)

広島電気の軍門に下った瀬戸内海横断電力は経営陣を更迭され,広島電気陣営に一新。芸予諸島へは広島側から送電されることとなり,伊予鉄道電気からの受電計画は放棄され,送電線架空工事も中断された。その後,昭和12年(1937年)瀬戸内海横断電力は広島電気と合併し消滅した。
潮流渦巻く島々をめぐる電流戦に勝負あり。これにより,芸予諸島の愛媛県側島嶼で現在 今治市に属する大三島,伯方島,大島へは,四国側からではなく,広島県側から給電されることとなり,現在に至っている。

芸予電力合戦について,井上曰く

“新井氏は戰を挑みながら終に敵に降伏した姿であつて,廣電は剣戟相見へんとする其瞬間に敵の本城を甘く乘り取つた事實に違ひはない,是に於て事態は全く一變した”

“折角に建設した大鐵塔も立枯れに任せるやうに打ち捨ておくことゝなつた”

“何時かは之れが亦四國中國の送電連絡統制に用ひらるゝことがあらう,而して私は必ずその時期の來るべきを信じ且望むものである”

“世界の公道たる瀬戸内海に入りて船の一たび來嶋海峡に進むや群嶋相擁して風光最も佳く,潮流急にして飛沫時に舷を洗ふ,此時甲板に於て眼を左右に放てば南北の山上高く天を摩す鐵塔の聳つを見るであらう”(「伊豫鐵電 思ひ出はなし」)

井上が讃えた来島海峡の“摩天楼”の命運であるが,その思い通じることなく,昭和19年(1944年)まで野ざらしにされた後,戦時下の金属類回収令により撤去されるに至った。 
送電鉄塔もまた,時代の奔流に身を晒しての興亡を免れなかった。

新井栄吉の打ち立てた大構想は,40年の歳月を経て実現することとなる。
高知県と徳島県の県境に水源を発し,室戸岬付近で太平洋にそそぐ奈半利(なはり)川(流路延長61㎞)。流域3万haの国有林は,秋田,熊野と並び“杉の日本三大美林”とされる。

“中小河川だが,上流の流域は年間降雨量4,000~6,000mmというわが国有数の多雨地帯で,しかもその落差が大きい”

“電源としては古くから注目されていたが,森林軌道しかなく,道路事情がまったく悪いため,開発されたのは四国電力の(とどろき)発電所(出力800kw)だけだった”

“戦後経済もようやく復興期に入ると,この電源地帯をいつまでも見のがしておけるはずがない”

昭和35年(1960年)電源開発株式会社(電発)にとり四国初となる長山発電所(出力37,000kw)が運転を開始した。続いて,二又(72,100kw),魚梁瀬(やなせ)(36,000kw)の各発電所も稼働し開発が完了。奈半利幹線により120㎞先の伊予変電所(愛媛県西条市)と結ばれた奈半利川の水力電気が,ここから“中四幹線”に連系し,本州側へと送電されることになる。
中四幹線は,高度経済成長と電力需要の拡大に対応すべく,昭和33年(1958年)に発足した電力の広域運営体制のもと

“四国の水力電源と中国・九州の火力電源とを連系させ,総合運用することによって西地域の電力融通や電源開発の経済性向上をねらったもので,その完成は西日本全体を超高圧送電線で結ぶことにもなった”

昭和34年(1959年)電発は,今治市に中四幹線建設所を設置し,同36年(1961年)来島海峡 中渡(なかと)島~大島より本工事を開始する。

“中国と四国を,島づたいに送電線で結ぼうという構想はかなり昔からあった。古くは大正時代,瀬戸内海横断電力株式会社によって計画され,一部着工しながら未完成に終わった経緯がある”

“また日発も戦後間もなく11万Vの送電線建設を計画,今治~三原,今治~呉の二つのルートを測量したが着工するに至らなかった”

“電力再編成後も,関西,中国,四国の各電力会社,そして電発もそれぞれに調査を重ねていた。というのも,中国・九州地域には有力な水力電源が少ないため,どうしても火力中心にならざるを得ない”

“ところが四国には大規模貯水池式発電所を開発し得る余地があった。したがって,中国と四国を結べば,安定的かつ低コストの電力が得られるという大きなメリットがあったからである”

“33年4月,広域運営が発足するや,中央電力協議会はまっ先にこの中四連系線の建設を決定し,それを電発が担当することになった”

昭和37年(1962年)10月伊予変電所,波止浜,馬島,中渡島,大島,大三島を経て大久野島から忠海へ至る中四幹線(220KV)が運用を開始した。大正10年(1921年)の瀬戸内海横断電力株式会社設立から40年。戦時供出による撤去を経て,芸予の海域に新たに建設された鉄塔群のうち,大久野島~忠海(径間2,357m)の塔高は226mを誇り,メッシナ海峡横断送電線(イタリア)の222mを抜き,当時の世界最高。まさに井上要の称した“摩天楼”となった。

世界を見渡せば,メッシナ海峡横断送電線にみられる径間3,646mを要するものも既に存在した。しかし,

“多くの島づたいに長径間が連続する送電線は,世界でも初めてのものであった。技術的には世界の注目を集める難工事だったのである”

技術面に加え,芸予海域における架線工事については,船舶交通の要衝としての特性が指摘される。

“作業中は船の航行を停止させなければならなかった。その間の作業時間は3~4時間という短さだったが,瀬戸内海は海の銀座であり,とくに来島海峡などは1日約1,000隻が往来する”

“船舶への予告は慎重をきわめた。各海峡ごとに,架線工事による航行停止日時を印刷したPRパンフレットを1万から1万5,000枚もつくって関係方面に配布した。もちろん外国船にも周知徹底させる必要があった。官報の水路通報が40ヵ国語に翻訳され,万全が期せられた”

災害事故ゼロ,航行停止に伴う海難事故も皆無のうちに,新時代の瀬戸内海横断電力架空線工事は完了した。

本州と四国が電気的に架橋された。このメリットについて,電発は,次の通り摘示する。

“電源の開発にしろ,設備の運用にしろ,その電力経済圏が広ければ広いほど,効率的に進めることができるのはいうまでもない。その点,四国は電力経済圏がせま過ぎた。それゆえに開発も運用も,これを効率的に行うことがむずかしかった。中四幹線がその壁を完全に打ち破ったのである”

“しかし,中四幹線のメリットはなんといっても,四国の水力と中国,九州の火力を連系させたことだ。その効用には,他の地域における連系以上のものがある。つまり,ただ電力経済圏が広がったのではなく,相互補完関係にあるものの結びつきを内容とする電力経済圏の拡大だったからである”

まさに,電力需要の緩い四国での電源開発に係る経済性問題を指摘した新井栄吉の見識と重なる。

さらに新井の想定をはるかに超えて,土佐 奈半利川の流れは,黒部川(流路延長85㎞),天竜川(同213㎞)の日本屈指の急流ともつながっていく。

“本州・九州間は,37年3月,新関門幹線が22万Vに昇圧されたことにより,関西電力黒部川第四と佐久間の両発電所を起点とする西日本側の60ヘルツ系超高圧送電線網が完成したので,それに四国を連系させたことは,広域運営の経済性をますます高める基礎を強固にしたことになる。この歴史的意義はきわめて大きいといえよう”

この連系は,中国・九州地方への送電にとどまらず,四国への電力融通も可能とした。
昭和37年(1962年)四国地方は異常渇水に見舞われたため,電力需給が極度に逼迫。

“連系開始と同時に,西地域広域運営の拠点変電所である伊予変電所をとおして中国,九州から四国へ連日4万~6万KWの異常時融通電力が送られたのである。中四幹線は,完成のその日から使命をまっとうすることになった”(以上,電源開発株式会社「電発30年史」)

降水期の相違をもとに,石見と四国との補完可能性を論じた新井の見識は,四国側への融通という両面性をも有していたことになる。

しかし,明治,大正,昭和と続いた送電鉄塔と架空送電線をめぐる興亡は,まだ終焉とはならなかった。
海峡部に15基の鉄塔を擁し,波止浜から忠海へと通じた中四幹線も,兜を脱ぐことになる。昭和63年(1988年)供用が開始された本州四国連絡橋 児島・坂出ルート(瀬戸大橋)に送電ケーブルを添架する方法等により,平成6年(1994年)香川県側と岡山県側とを結ぶ“本四連系線”が運用開始。これにより中四幹線はその本来の役割を終える。

広域運営としての役割を終えた中四幹線。昭和37年(1962年)完成時,世界最高を誇った大久野島・忠海の送電鉄塔(226m)は,現在,中国電力ネットワーク株式会社大三島支線(110KV)10号,11号鉄塔として健在。再掲する井上要の詞のとおり,塔高日本一の座に相応しい雄姿を映している。

“群嶋相擁して風光最も佳く,潮流急にして飛沫時に舷を洗ふ,此時甲板に於て眼を左右に放てば南北の山上高く天を摩す鐵塔の聳つを見るであらう”

平成3年(1991年)竣工の東京都庁第一本庁舎(243m)を想像すれば,海上の摩天楼ぶりをいっそう実感できる。

兵どもが夢の跡に,送電鉄塔在りて……。
才賀藤吉と新井栄吉を首領とする電気事業経営をめぐる興亡。
芸予の海の先達“武装した海運業者”として“その成立の当初から事業経営者であった”村上水軍の当主であれば,はたして如何なる経営の舵取りをしたのであろうか。園尾隆司氏は“村上水軍の経営哲学”として“3つの命題”を論じる。

-第1命題「牽制と連携」-

“「牽制」は「征服」や「淘汰」に対置される言葉であり,「連携」は「支配」や「同化」に対置される言葉である”

“3島村上水軍のその後を見ると,支配・隷従・腐敗を避けつつ統一体を保っており,それを支える哲学が牽制と連携であると感じさせられる”

“これに対置されるのが,欧米諸国の祖に当たるローマ帝国のローマ法による支配である。(中略)この体制下では,形成された組織が安住することを避け,活力を保持させる手段は,自由競争による淘汰である。牽制と連携により共存を図る村上水軍哲学とは対照的である”

“今治海事クラスターを構成する伯方島の企業には,小規模なものが比較的多く,それが連携して力を発揮しているといわれる。これは,1390年ごろ以来,3島村上水軍を形成し,牽制しつつ連携していく思想の下に事業を営んできた伝統によるものと思われる”

-第2命題「常に浮き沈みに備えよ」-

“浮き沈みに備えるに際して,最も大きな役割を果たすのでが「小を束ねて大となす」という手法である”

“事業の1点に資源を集中させてしまうのでなく,海運業と石油業の組合せ,海運業と農業の組合せ,事業と地域貢献の組合せ,その他の幅広い組合せの中で,浮き沈みに備える浮力を蓄えるのである”

“「足るを知る」(中略)伯方島では,海運会社の社長が少なくないが,仮に会社が儲かっていても,外車を買うことはしないという。(中略)世界的海運会社を牽引する国際海運会社の社長と四輪駆動の国産軽トラックの間に違和感がないことは,浮き沈みに備える上で必要な要素であり,これが浮き沈みに備える力の源であると感じさせられる”

“債権者がタイミングによっては債務者に転ずるということを予想することである。この債権者と債務者の相互流動性が,債務者の再生の努力に理解を示す日本型債権者の特別な行動様式を作り上げているように思われる。これは世界に類例がない”

“説得の努力と失敗者に対する理解,更生への援助の姿勢は,日本に本来的に根付いている考え方である。これらは,浮き沈み,すなわち,立場の相互流動性の理解に基づいて生まれる哲学であり,思想であるといえよう。この日本独自の哲学は,「欧米では」「諸外国では」という明治維新以来の使い古されたキャッチフレーズにより浸食されつつある。しかし,物事に対処するに際して,歴史や風土の上に築かれてきた日本固有のものについての理解が欠かせない。この問題を考えるについて,村上水軍哲学は一つの有用な検討材料を提供しているといえよう”

-第3命題「自らの依って立つ地を活力の源とせよ」-

“3島村上水軍は,能島・因島・来島と分れ,それぞれを育んだ島を活力の源としている。それは先祖伝来の地というにとどまらず,その地を思い,その地で事業を興し,人を育て,そこを本拠として外に向かうのである。自らの依って立つ地の力を活力の源としているがゆえに,判断の基準が明白で,目標を見失わない”

この第3命題に関して,園尾氏は“伯方島レジェンドゴルフ場”計画を耳にする。

“伯方島インター近くに,海を見渡す日当たりの良い丘がある。この地に伯方島レジェンドゴルフ場の計画があると聞いて興味をそそられた。計画を主導するのは伯方島の二人の自治会長である”

“公費を注ぎ込んだ地域活性化計画に基づく造成作業と見た。そうすると,地場の土建業者にカネを落とす整地作業のはずである”

しかし,この点について質問した園尾氏に対する回答は以下の通りで,想定の範囲を超えていたとのこと。

“「息子に事業を譲った70歳以上の島の者が自前のショベルカーを使うて整地しよんよ」”

“会社や仕事を次代後継者に譲った「レジェンド」が労力を提供して,島の皆が利用するゴルフ場を作り,子供たちが遊べるツリーハウスを作るものだという。(中略)「これはいわゆる地方活性化事業とは違う」,それが私の第一印象であった”

園尾氏は,“口外無用”の秘話を知ることとなる。“地方活性化事業のノウハウに満ちた話である。読者の方々も,ぜひ口外しないよう”にとの断りつきで,伯方島レジェンドたちの“ノウハウ”を明かしてくれる。

“「ツリーハウスのあるトムソーヤの丘からゴルフ場まで滑車(ジップライン)で下りられるようにワイヤーを張った。途中,農業用のため池の上を通るんで,冒険気分を盛り上げるために,この池にワニを飼うてはどうかと考えた。ため池を管理する県の担当者が視察に来たんでそう説明したら,それは絶対にやめてくれェいわれた」”

“「この池は,古くからあるため池で,人が落ちると危ないけん,柵を作るようにいうとるんじゃが,管理する県のほうでなかなか動かん。それで88歳になるレジェンドに頼んで,今度,そこに落ちてもらうことにした。若い者が落ちても県は動かんじゃろうが,年寄りが落ちると,動くかもしれん。爺さんとは話がついとる」”

そもそもレジェンドゴルフ場計画を策定した経緯は,外国資本による用地取得の話が持ち上がったことによる。先手を打って地権者にレジェンド計画を話し,土地を売却しないように手配した。
園尾氏は,伯方島のレジェンドたちに,時代の潮流を経て受け継がれてきた“村上水軍の経営哲学”の神髄をみる。

“地方には,売ろうとしても買い手が見つからない農地・山林が多い。その存在に目をつけて,外国資本等が跋扈し,これに伴って現れる開発業者は,歴史・風土に無頓着である。その開発が歴史と風土を破壊し,それが過疎にさらに拍車をかける”

“しかし,このようなマイナスの動きに抗する動きもある。(中略)レジェンドゴルフ場は,その先端を行く企画である。それは,地方から起こった計画であり,地方と風土への想いと地域の夢を骨格に持ち,自由な発想で企画され,自在な展開を遂げていく”

“依って立つ地に夢を描き,自在に展開する経営哲学「自らの依って立つ地を活力の源とせよ」を地方活性化に向けての締めくくりの言葉としたい”(「村上水軍 その真実の歴史と経営哲学」)

芸予諸島の未来にまばゆい灯がともる。

文:穂積 薫

主な参考文献
園尾隆司「村上水軍 その真実の歴史と経営哲学」一般社団法人 金融財政事情研究会 2020年
田村栄太郎「人物・近世エレキテル文化史」雄山閣出版 1985年
「瀬戸内海横斷架空線電力輸送」因島電氣株式會社 (不明)
井上要「伊豫鐵電 思ひ出はなし」伊豫鐵道電氣株式會社社友會 1932年
「中国地方電気事業史」中国電力株式会社 1974年
「電発30年史」電源開発株式会社 1984年
「瀬戸内海横斷電力株式會社」瀬戸内海横斷電力株式會社創立事務所 1921年 
田丸實太郎「因島案内」因島案内社 1919年
「因島市史」因島市史編集委員会 1968年
「伯方町誌」伯方町誌編纂会 1988年
三木理史「局地鉄道」塙書房 2009年
三木理史他「熱き男たちの鉄道物語 関西の鉄道草創期にみる栄光と挫折」ブレーンセンター 2012年
片上雅仁「サムライ起業家 小林信近」創風社出版 2018年
銀林みのる「鉄塔 武蔵野線」新潮社 1994年
送電鉄塔研究会「送電鉄塔ガイドブック」オーム社 2021年

なつかしい未来への道すがら ~ 潮流と電流を海上と陸上から “芸予諸島 摩天楼巡礼の旅”

<利用公共交通機関:四国旅客鉄道(予讃線),瀬戸内運輸(せとうちバス),今治市営渡船, 大三島ブルーライン,さんようバス,山陽商船/大崎汽船,芸陽バス,西日本旅客鉄道(山陽線),おのみちバス,芸予汽船>

・JR松山駅6:13発“しおかぜ6号(予讃線)” → 今治駅 6:49着
・今治駅前 7:03発“今治営業所行(せとうちバス)” → 今治桟橋 7:10着
・今治港 7:20発“岡村港行(今治市営渡船)” → 宗方港 7:54着
・宗方港 8:10発“木江港行(大三島ブルーライン)”→ 木江港 8:23着

  ~ 来島海峡の潮流,来島海峡大橋,航行船舶,芸予諸島の島々と送電鉄塔の景観 ~

・天満桟橋 8:47発 →“左回り(さんようバス)” → 大崎上島町役場 9:09着

~ 木江のまちなみ ~

・白水港 9:35発“竹原港行(山陽商船/大崎汽船)”→ 竹原港 10:05着

  ~(1)海上から摩天楼を望む ~
① 塔高国内第1位 226m「大三島支線 大久野島11号・忠海10号」
② 第2位 223m「大崎火力線 臼島13号・吉名14号」
③ 海面上42mを横断する送電線
④ 大崎クールジェンプロジェクト実証試験発電所の煙突(200m)
  ~(2)広島の軍艦島“契島”(東邦契島精錬株式会社の社有島)の景観 ~

・竹原フェリー 10:10発“中通行(芸陽バス)”→ 新港橋 10:12着

~ たけはら町並み保存地区,竹鶴酒造,ほり川“酒粕生地のたけはら焼(昼食)~”

・竹原駅 12:43発“三原営業所行(芸陽バス)” → 三原駅13:53着

~ バス車窓から摩天楼を望む ~
① 電源開発 竹原火力発電所
② 鉄塔の直下を走行するバスの車窓から忠海10号(226m)を真下から見上げる
③ 本州側からの大久野島11号(226m)の景観
④ 今治造船 広島工場のゴライアスクレーン5基(1,200t 1基・800t 4基)と建造船を間近から

・三原駅 14:34発“長船行(山陽線)” → 尾道駅14:46着

    ~ 吉源酒造場“寿齢”(尾道駅北口から徒歩5分)~

・尾道駅前15:40発“土生港前行(おのみちバス)” → 土生港前16:28着

~(1)バス車窓から 尾道・向島のまちなみ ~
~(2)因島 土生のまちなみ散策 ~
~ (3) 吉井勇の歌碑「島々の 灯ともし頃を ゆるやかに 生名渡しの 船は出づらし」(土生港)~

・土生港 17:10発“今治行(芸予汽船)”→ 今治港 18:30着

  ~ 船窓から 因島,生名島,その他芸予の島々を結ぶ送電鉄塔と架空送電線の景観 ~

・今治桟橋 18:36発→“朝倉支所行(せとうちバス)”→ 今治駅前18:43着

  ~ 居酒屋tsugumi 今治の地酒“山丹正宗”(今治駅南口から徒歩1分)~

・今治駅 19:48発“しおかぜ21号(予讃線)” → JR松山駅 20:28着

※(注)行程確認日:2023年7月11日
各公共交通機関の運行日及び時刻、並びに各店舗等の営業日及び時間につきましては、事前に確認願います。また徒歩時間は目安です。


新たな巡礼の旅 ~ 銀林みのる“鉄塔 武蔵野線”

“わたしは幼年時代から送電線の鉄塔が好きでした。(中略)疾うにその頃には,鉄塔には女性型と男性型があり,男性型には碍子連Ⅰ吊とV吊があること,逆三角形の帽子を被った料理長型鉄塔が増えつつあること,電線を支持する腕金が3段のものと6段のものと9段のものと1段半のものがあること(中略)・・・その他諸々について,私は承知していました。そうした観察結果に基づく話題を交換する相手は,残念ながら周囲には1人もいなくて,自分だけの知識を大切に温めておくより他なかったのです。― 以上は,わたしが幼稚園に入る前のことです”
主人公の独白からはじまる銀林みのる氏の作品“鉄塔 武蔵野線”。当時の東京電力に実在した路線名“武蔵野線”の送電線路を,75-1号鉄塔から1号鉄塔を目指して冒険するファンタジー。
“これまで見ていながらじつは見ていなかった風景を,見えるようにしてしまった”(井上ひさし)。
“およそ「文学」の対象としての資格をまったく欠如しているような80基にのぼる鉄塔を巡礼”(高橋源一郎)との選評も。
芸予の島々に“じつは見ていなかった風景”を見てしまった方にとって,瀬戸内海の景観を構成する要素としての“送電鉄塔”も,旅ごころをいざなうのでは。
そのような方へのおすすめは“うさぎの島”大久野島。小説の主人公のように冒険心を躍らせながら桟橋から散策路へ。時折うさぎの出迎えをうけながら進むと“大三島支線11号鉄塔”の陣取る高台へ。226mを真下から仰ぎ見ることができます。少し表面に剥離がみられる往時の銘鈑“中四幹線 昭和37年10月竣工 電源開発株式会社”がこの鉄塔の歴史を物語ってくれます。


 

 

 


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