讃岐とは阿讃山脈を境とし,同じく和製糖の主要産地となった阿波。製糖業の始祖は板野郡引野村(現在の徳島県板野郡上板町)の丸山徳弥といわれている。
“ある日彼は,たまたま九州より来たという一人の四国遍路から,九州地方の砂糖黍栽培の様子を聞き,この地方の風土がその栽培に適することを知って,大いに心を動かされ,是非甘蔗をここに試植したいと決心した”(「上板町史」)
安永5年(1776年)日向 延岡へ渡り,国外持出し禁止の甘蔗苗を隠匿して持ち帰り,植え付けたことに始まるという。讃岐と同じく阿波でも,四国遍路との関わりが伝えられている。
もっとも,阿波 板野郡は,阿讃山脈を境に讃岐 大内郡と隣接していることから,讃岐からの伝播説もある。神宅村の百姓何某が讃岐 大内郡湊村より苗を取り寄せ,丸山徳弥よりも先に砂糖を製造していたというものである。史実は不明であるが,板野郡神宅村(現在の上板町神宅)が,阿波砂糖の草創期からの産地であったとみられる。
この神宅村で製糖と酒造を家業とする中川家に,安政6年(1859 年)三男 虎之助が生まれる。中川虎之助の機縁により,上板町と沖縄県石垣市は平成12年(2000年)“ゆかりのまち”提携を結ぶ。
“阿波徳島の糖業の不振を受け中川虎之助が1881年3月24歳の若さで沖縄と八重山の糖業を視察したことは先見の明という点で注目される”
安価な輸入糖に伍していくには,近代化された製糖業を起業することが必須と考えた中川は,八重山に着眼する。琉球は奄美とともに薩摩藩への砂糖供給地であったが,食糧自給確保のため,琉球王府は元禄10年(1697年)に甘蔗作付制限令を発し,八重山での作付は禁止されていた。ゆえに八重山には開墾可能な広大な土地があった。
中川は八重山視察後,開墾許可を申請するも,時期尚早とされ,許可が下りたのは10年後の明治24年(1891年)。神宅村近辺出身の開墾者とともに八重山開墾組合を結成し,石垣島名蔵での開墾に着手した。
“同組合は当初から洋式機械による砂糖製造とともにアメリカ式大規模農法の導入を意図した点で画期的なものであり,(中略)人夫たちに賃金を支払い現金収入による貨幣経済をスタートさせた点で意義深いものとなった”
近代製糖業は“原料の甘蔗の栽培から砂糖を生産する農工一貫産業”である。
“糖業は農業的生産部門と工業的生産部門との結合を要すること特に顕著なる産業を以て,社会的に両部門の生産が均衡を保ちて発達するを必要とするのみならず,企業の立場より見るも大規模なる分蜜糖工場を中心として溯つては原料甘蔗の獲得より進みては製品の生産的消費に至る迄技術的及経済的に一貫せる生産各段階を兼営するは,企業の安全利潤量の増大利潤率の向上を計る上に於て必要である。各製糖会社分蜜糖工場が単純企業の形態より発展して混合企業形態を取るに至れるは蓋し独占資本主義の当然である”(「帝国主義下の台湾」)
この点,中川の八重山での事業は“甘蔗収穫量と製糖能力のアンバランス”に直面する。
“同組合においてアメリカ方式がいち早く採用されたのは農業面であった。アメリカ方式の大農法式農場経営の甘蔗作を目指しつつもそれに見合うだけの製糖能力を持たなかった点に課題はあった”
中川は製糖面での近代化を画すべく,渋沢栄一ほかの協力を得て,明治28年(1895年)八重山糖業株式会社を設立する。同社は設備の近代化をはかるべく
“解散した北海道の紋鼈製糖の洋式主要機械を活用するはずが台風のため陸揚げすることさえ叶わず,石川島造船所に置かれていた同機械を設置することができないまま事業整理に至ったのである”
久保文克は“戦前八重山糖業の黎明期は八重山糖業会社の挫折とともに失敗に帰すことになった”ものの,中川の事業を次の通り評価する。
“内地産業資本家や政治家の資金援助を得て大規模かつ近代的な製糖業を目指した八重山糖業会社ではあったが,黎明期の意義がアメリカ式大規模農法や農具の導入によって農業技術を大きく前進させた八重山開墾組合にこそ見出されたことを考えるとき,同社事業整理に際して農業技術を現地に継承させようとした強い意志も含め,戦前八重山糖業の黎明期とは中川個人の尽力によって推進されたと言っても過言ではない”(以上,久保文克「戦前日本製糖業の史的研究」)
寛政期から続く国内製糖業が,輸入自由化のもと壊滅的な危機に瀕する状勢下で,官営にはじまる北海道での甜菜製糖事業が頓挫するに至り,中川の八重山での製糖事業計画は,国内での製糖業の可能性を追い求めるものであった。夢ついえた中川は事業の地を台湾に移す。
八重山開墾をゆかりとする上板町と石垣市には,もう一つのゆかりがある。南原繁と矢内原忠雄との由縁に似た“総長つながり”である。東大総長の矢内原忠雄が気概を示した東大ポポロ座事件の第1審判決が,学問の自由の保障に関して大学の自治の制度的保証を論じ,学生全員を無罪(後に有罪)とした昭和29年(1954年),沖縄県八重山郡石垣村出身の商法学者 大濱信泉(1891~1976年)が戦後第2代の早稲田大学総長に就任する。大濱は昭和41年(1966年)まで戦後最長の3期12年在職するが,この間に早大が直面した事件が,昭和35年(1960年)の“安保闘争”と昭和40年(1965年)から翌年にかけての“学費・学館闘争”である。
“学苑は未曾有の混乱状態に陥った。半年余りに亘る長期間,実質的に全学の機能が麻痺した。この間,学年末試験が延期となり,しばしば警官隊の出動が繰り返され,入学試験が厳重な警戒体制の下で行われた。そして,遂に総長以下の大学執行部が総退陣した。百五十五日間の全学ストライキという規模の面でも期間の面でも,学苑百年の歴史の中で最も大きな紛争となった”(「早稲田大学百年史」webサイト)
学費・学館闘争の内容に立ち入ることは,字数の都合もあり差し控えるが,この学生運動により,大濱執行部は3期目の任期を全うすることなく,事態の責任をとり総退陣する。大濱の退任の辞には紛争の長期化と激化の背景が読み取れる。
“今次の紛争は,学費の値上げに対する反対と,学生会館の管理をめぐる問題に端を発したがそれは表面上の闘争目標にすぎないのであって,現時点においてみれば,学生の関心はむしろ大学教育に対する不満と不信感にあるとみてよいであろう。それこそ,大学の危機というほかはあるまい”
混乱の中退任した総長の後任選びは異例の打開策をとることになる。戦前に政治経済学部教授として主に財政学を講じたものの,その後毎日新聞社,産業経済新聞社で主筆,編集主幹等を歴任し,あくまでも“学外者”として早大評議員に任じていた阿部賢一(1890~1983年)が総長代行に就任する。
“大浜総長の辞意表明を承けて後任者が問題になるに及び,多くの教員・評議員や校友は,評議員会長の阿部賢一に白羽の矢を立てた。学外者に総長職を委ねるのは学苑では異例の事柄に属する。大学の自治を確保するために,学内から総長を推戴することが既に慣例化していた。にも拘らずこの時,学外者にして評議員会長たる阿部の見識と人格に大方の期待が寄せられたのは,学内にもはや適任者が得られなかったことを意味する。それを大浜は見越していた。実は,学部長会での辞意表明を大浜に促したのは阿部であり,阿部に後任を引き受ける決意を促したのは大浜だったのである。そして阿部は,「この難局は誰かが犠牲を払わずしては,とうてい打開できるものではないだろうとひそかに考えざるを得なくなった。といって他に誰もこのにがい盃を飲む者が出そうにない。やむを得ない。私がそれを飲み干そうと心で決めた」”
阿部は同年9月の大濱前総長の任期満了日の9月22日に総長代行を退任し,正式な総長選挙を経て,戦後第3代早大総長に就任する。
この阿部賢一の出身地が阿波の神宅である。明治23年(1890年)徳島県板野郡大山村大字神宅村の屋号「∧忠」阿部家に長男として生を享ける。阿部は75歳で総長代行という火中の栗を拾い,学費・学館をめぐる155日間闘争の終息をみて,昭和43年(1968年)6月任期を大幅に残して退任する。
後に阿部の追悼式で,当時の早大総長 刑法学者の西原春夫(1928~2023)は,“機動隊導入によらない紛争の解決”を目指し“大衆団交に連日連夜長時間出席され,脈拍が二百二十に達してドクター・ストップがかかるまで,学生運動の指導者と激論を交された”と阿部の人柄と功績を偲ぶ。
かように東大と早大では,砂糖にゆかりのある総長が2代続き,いずれも甘くない“にがい盃”を自ら飲み干し,戦後の新制大学草創期と学生運動の時代をつないだ。(つづく)
文:穂積 薫
バックナンバーはこちら(「風と土と」トップページへ)