大和田建樹の作詞による校歌のもと3年間を過ごしたタケカワユキヒデ氏は,1972年(昭和47年)東京外国語大学外国語学部英米語学科に入学し,1983年(昭和58年)同大学を卒業する。休学3年,留年4年を経ての在籍11年という偉業を成し遂げる。
“僕がこのように長々と大学に居座ろうと決めたのは,入学して間もないころだったのだ”
“もし大学を4年で卒業するようなことがあれば,もう音楽活動は続けられないのではないか,といったような,変な強迫観念にとらわれていたのだ”
音楽活動を本業として,20代のすべてを大学生として通した同氏は,出来事を“大学何年生の時”と振り返るクセが身についたと,エッセイ“タッタ君現わる”で述べている。
“最初にソロのレコードの制作をしていたのが,3年の時”
“ゴダイゴの結成は5年の時”
“結婚したのは6年の時で,最初の子供が生まれたのは7年”
“11年生の去年は,ずっとこのエッセイを書き続けていた”
11年の歳月は,同氏を牢名主のごとくする。
“八人いる英米語学科の教授のうちの二人よりも,古くから学校にいたのだ”
教授のうちの一人が,卒業式にあたり,同氏を“総代”に推してしまう。成績ではなく,卒業式を盛り上げる絶好の人物と見込んでのこと。式当日の総代を依頼する教務課職員の電話も,普通の学生相手ではありえない内容。
“あの,お忙しい最中だとは思うのですが,今月25日のスケジュールはどうなっていますでしょうか?”
迎えた卒業式で,“総代”のミュージシャン タケカワユキヒデ氏は,11年目にして初めて母校の校歌と対面したようである。
“開会式宣言の後,まるで浅草オペラのような校歌が聴こえてきた。この大学の校歌は,こんなにユニークな唄だったのだろうか” (以上,タケカワユキヒデ「タッタ君現わる」)
東京外国語大学の校歌は“大学歌”と称し,1957年(昭和32年),大学創立60周年記念として,ロシヤ語学科学生(柴原徳光 氏)の作詞をもとに制作される。
天地のひらく あけぼのに プロメテウスの 炬のごとく
いざや掲げむ 燃ゆる理想を 大いなる視野 ひらけゆく
ああ 東京外語大 われらの行手 永久に輝く (東京外国語大学 大学歌 第一番)
タケカワユキヒデ氏は,1983年(昭和58年)の卒業式よりも4年前に,火の神ならぬ機械帝国を掌る“プロメシューム”と遭遇する。
1977年(昭和52年)少年キングに連載された漫画家 松本零士の作品“銀河鉄道999”は,マンガ,テレビアニメーション,劇場版,これらの続編など,一大ブーム現象を巻き起こす。あたかも大和田建樹の鉄道唱歌現象の現代版ともいえようか。
2年後の1979年(昭和54年)には,劇場用長編アニメーション“銀河鉄道999”が公開される。この作品の主題歌をゴダイゴがリリース。作曲は,この時東京外語大8年生のタケカワユキヒデ氏である。
主人公 星野哲郎は機械の体による永遠の命を手に入れるため,謎の美女 メーテルと銀河鉄道999号に乗車する。経路にある星での停車時間中に,さまざまなドラマに遭遇し,経験を積み,少年から大人へと至るこころの変化を織り交ぜながら,終着駅を目指す旅である。
終着駅で鉄郎を待ち構えていたのは,メーテルが母 プロメシュームの密命を帯びて,機械帝国の生きた部品のひとつにするため,鉄郎を999号に乗せて連れてきたという事実である。しかし,鉄郎は,限りある命こそが人間に生きる意義をもたらすということに,鉄路の旅を通して気付いており,女王 プロメシュームと対決する。
多梅稚の曲と同様に,タケカワユキヒデ氏のメロディも,月日を経てなお輝きを放つ。
2016年(平成28年)3月9日,すなわち“スリー ナイン”の日から,山陽新幹線の主要駅での発車メロディとして使用されることになる。もちろん,“銀河鉄道999”の原作者 松本零士が漫画家を志し,東京へと旅立った小倉駅でも,新幹線ホームでの旅立ちを演出する。
1938年(昭和13年)福岡県久留米市で生を享けた零士(本名 晟)は,戦時中の1944年(昭和19年)から3年間,父と母の故郷である愛媛県喜多郡で疎開生活を送る。当初,父親の出身地である大平集落(零士の疎開時は喜多郡白滝村に帰属。後に長浜町を経て,現在は大洲市戒川の集落)に疎開するものの,標高500m程の人里離れた集落であることから,零士少年のことを気遣い,母親の出身地 新谷(当時の喜多郡新谷村。現在の大洲市新谷)に移り,新谷国民学校での2年間を地元の少年たちと過ごす。
この大平・新谷での少年時代の記憶が,科学そして宇宙への壮大な物語を創作するSF漫画家 松本零士の原点となる。零士は,“少年と科学”と題して,大平・新谷での記憶を語る。
“その次に科学とか技術というものに接したのは,ラジオとB29である。まさに真に迫った遭遇であった。何しろB29は必殺の気迫をみなぎらせてやって来たし,ラジオはやはり本気で防空情報を流した。刻々と通報されるB29や艦載機の飛行コースをどこで誰がみているのだろうと,一年生の私は不思議な気がしたが,どうやら当時我国にもレーダーがあって,コースをつかんでいたらしい。その証拠を私は,体験的に持っている”
“私は愛媛県にいた。「どこそこから右にそれて,敵艦載機群通過! ただ今愛媛県上空に侵入しました!」防空情報が絶叫したとたん,間髪を入れず,地軸をゆるがす爆音とともに編隊が頭上に飛来した。フィクションの戦争映画やSFのスリルなどは,この体験の足元にも及ばない”
新谷の母親の実家から毎日見届けていた,新谷駅を経て大洲・内子間を走行する列車の惨劇も少年の目に焼き付く。
“レーダーだけでは,頭上からの銃撃を防ぐすべがなかった。線路の上で機関車が一両,ハチの巣にされてしまった”
戦争体験を通じて,科学と技術の世界に引き込まれてしまった零士少年に,空想の世界が広がり始める。
“私の頭の中での科学文明は,アメリカの科学文明など,とっくに飛び越してしまい,遠い未来の大空想科学的妄想の世界へと突入してしまったのである”
“そこでは,宇宙を飛ぶなどというのは常識であり,他の星系へ行くのも常識である”
“異星人との対話も常識であり,宇宙船のB29的来襲も常識である”
“そして,それが私の職業になってしまった”
新谷で科学文明の衝突を脳裏に刻み込む零士少年であるが,宇宙へのまなざしは,陸軍少佐の航空パイロットたる父親と過ごした大平に原点をみる。
“生まれ故郷の大平村の山中で炭焼きを始めた父は,少年時代の零士を伴い炭焼き窯の前で夜通し語り続けたという”
“壺神山の上に輝く北極星を教えると,南洋の空で見た南十字星について語る。満点の星に包まれた夜間飛行はさながら宇宙飛行のようであったこと,その中で上げかじをとると火のように赤い火星にまで行けそうなこと,これから世に現れるであろうジェット機,ロケット機にまで話はおよんで,零士少年の心はまだ見ぬ宇宙へ飛んでいた”
伊予灘の海岸線から急峻な稜線を描いて標高971mに至る壺神山は,現在の大洲市と伊予市の境界をなす。大平集落は,この山腹にある。伊予灘側とは反対の急斜面にたたずむ大平からは,肱川上流部へとつづく四国の内陸部の山々を見通すことができる。
1947年(昭和22年)新谷から福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区)砂津に移る。県立小倉南高等学校在学中の15歳の時,投稿した“蜜蜂の冒険”が第1回漫画新人王に入選し新人王を受賞。“漫画少年”(1954年2月号)に掲載され,同校卒業後に漫画家を目指し上京する。
“二本の定規や,ハサミやペンザラやペンジクは,九州から私の青春といっしょに汽車に乗ってやって来た私の分身みたいなものだ”
“あの時の汽笛や,線路からつたわって来る震動や音を,私といっしょに聞いて来た分身だ。あれ以来,かた時も私のそばを離れた事はない”
小倉から東京までの20数時間の汽車の旅。零士は眠ることなく窓外をみつめる。
“夜通し窓に映る自分のメガネ顔と対話を続けたのだ。(中略)いつか作ろう,必ず作ってやろうと思っていた漫画映画の事ばかり考えていた”
“反対側のシートに,暗黒の窓外をバックにメーテルの原形の横顔を想い描いていた。その横顔だけは鮮明に覚えている。それはまさしくわが青春のメーテルだった。その横顔は一度もこちらを向いた事はない。向こうを向いたこともない。いつも横顔だけを見せてだまって座っていた”
“将来どんな漫画映画を作るにせよ,必ずその横顔を,大切に描こうと思って,時は流れた”(以上,松本零士「銀河鉄道の夜」)
2023年2月13日無限の旅に発った松本零士。“こころの古里”と慕った新谷で,同年10月28日夜,零士が少年時代に親しんだ矢落川の土手から,零士へのメッセージを託したランタン218個が,宇宙に向けて放たれた。(新谷一万石まちおこしの会「銀河灯夜」)
「新装版 銀河鉄道999 アンドロメダ編 3」のエッセイに寄せて,“時空への旅”を続ける零士への想いをタケカワユキヒデ氏が語る。
“この作品には,松本先生の生き方だけではなく,不思議な体験も反映されています。「高校を卒業してすぐ,小倉から汽車に乗って上京するときに,同じ車両の中で確かにメーテルを見た」とおっしゃっていた松本先生,また「自分の一族の古い写真の中に,メーテルそっくりな女性を見つけた」ともおっしゃっていた先生”
父方ならば宇宙を語った大平集落,母方ならば汽車を目にした新谷地区,いずれもが,あの謎の美女 メーテルのふるさとである。
(つづく)
文:穂積 薫
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