白砂青松 ― 故郷であるいは旅先で,松林を過ぎゆきまばゆい砂浜で戯れたひと時。島国の原風景のひとつともいえる海辺の松原でのいこいは,いにしえ人のこころにも深く刻まれたものとみられる。

“天然に成立したマツ林は,古来,人びとが遊びつどう場でもあった。
『出雲国風土記』島根郡前原(さきはら)の崎にその光景が描かれている。
「(中略)松並木はうっそうと茂り浜潟は深く澄んでいる。男女は時どきにむらがりつどって,あるいは十分楽しんで家路につき,あるいは遊びふけって帰ることを忘れる。いつもうたげをして楽しんでいる場所である。」”(小田隆則「海岸林をつくった人々」)

「白砂」も「青松」も中国の古典を典拠とする。

“「緑松」でなく,「青松」が用いられているのも,もちろん漢籍の影響である。「青」は,古代中国の戦国時代(前402~前221年)にひろまった五行説において,木,春,東に対応する語で,「草木生成のいろ。五色の一」(『大漢和辞典』)であり,東方の色とされる”

“「白砂」の「白」は,汚れのない,清い,明らか,の意味があり,西方の色とされる”

この東方と西方の色をあわせた「白砂青松」の四字熟語については,漢籍ではなく日本で造語されたものとする説がある。
“松と日本人”などの著作のある有岡利幸 氏は,1874年(明治7年)に文部省が発刊した“萬国地誌略”中の天橋立についての記述,“日本地誌略”の須磨浦及び三保の松原についての記述に“白沙青松”の熟語を見い出し,これをもって語源と説く。
有岡説に即して,小田隆則 氏は

“「白砂青松」の熟語は,17世紀半ば以降に本格的にはじまったマツの植林の成果が,全国各地の海岸でふつうに見られるようになった後にできたものであるということだ。言葉は共通理解があってはじめて通じるし,意味をもつものとなる。明治になると,その言葉で,誰もが,海辺のマツ林の美しさを納得できる状況ができていたのである”

日本人がいつのころからマツを植林したのかは不明であるが,天正8年(1580年)武田勝頼が北条氏政を攻めるため本陣を浮島原に置いた際,北条方の伏兵を警戒して松原を伐採したところ,潮風の吹き付けにより住家,田畑に甚大な被害が生じたことから,松苗千本を植栽して海風を防いだとの記載が残されている。(静岡県沼津市千本松原)
“飛砂,風害,塩害,津波・高潮害などを防ぎ軽減するはたらきがある。そのほかにも,防霧や魚つき,保健休養などの機能がある”海岸林として,江戸期以降,各藩により本格的なマツの植林が始まる。

もっとも,明治期から1945年(昭和20年)8月の終戦に至るまで,主に軍需により各地のマツが大量に伐採され,全国の松原が荒廃した。

“戦後になって,海岸砂地地帯農業振興臨時措置法(昭和28年)や,治山治水緊急措置法(昭和35年)が公布され,全国一斉にマツの植林が展開された。今日見る,全国各地のマツ林の多くがこの時期に植栽されたものである”(以上,小田隆則「海岸林をつくった人々」)

いつの時代にあっても,戦乱の世にはマツが乱伐され,里海の生活を守る海岸林としての機能を失い,里山の国土保全機能を衰弱させてきた歴史に学ぶべく,“国民が「白砂青松」に対しての認識を高め,愛護の念をつのらせ,緑濃い姿のままで次代に引き継ぐことを目的”として,日本の松の緑を守る会が,1987年(昭和62年)に選定した“白砂青松100選”。愛媛県では国指定名勝“志島ヶ原海岸”(今治市桜井)が唯一選定されている。
菅原道真公が大宰府へ赴く途中に海難に遭った際に上陸したとの伝承を継ぐ綱敷(つなしき)天満宮を中心とした約11haの敷地に,クロマツ,アカマツの老樹約2,500本を有し,沖合に平市(へいち)島,比岐(ひき)島などを望む燧灘の景勝地。公益財団法人志島ヶ原保護協会の有志が,枯松葉を掃き集め,松原の維持と美化に貢献している。

年間を通して神々しい朝日を拝むことのできる海浜としても著名な志島ヶ原海岸の一角に,その人柄を表すかのようにひっそりとたたずむ胸像がある。

村上龍太郎は,1892年(明治25年)越智郡桜井村に出生した。実家は裕福な酒造家であったとのこと。東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し,1917年(大正6年)農林省に入省。山林局に配属となり,高知,鹿児島の営林官署を経て,1929年(昭和4年)農務局農政課長として,農村恐慌下の小作争議問題に対処する。

1933年(昭和8年)“官吏を志してこの時ほど心からうれしかったときはなかった”という山林局長を拝命。当時,明治44年(1911年)から始まった第1期森林治水事業に続く,第2期森林治水計画(25ヵ年計画)事業の立案を担うことになる。昭和9年(1934年)に発生した北陸・関西地方の水害,東北の大冷害など相次ぐ災害に直面して,治山治水施策の拡充強化が緊要とされる中での新たな森林政策の立案。“農政の神様 石黒忠篤,林政の大御所 村上龍太郎”とも評される村上にとり“心からうれしかった”のもうなずける。この短い山林局長時代に,海岸砂防林,防風林など森林の災害予防機能を積極的に活用する思想のもとに基本政策を樹立。加えて戦後の国土緑化推進事業につながる“愛林日”植樹行事の全国統一化などを実現する。

敗戦に至るまでの乱伐により荒廃した国土を復興させるべく,戦後の村上は“林政の大御所”から“国土緑化運動の父”として“挙国的な国土緑化運動の先頭に立って”つき進んでいく。

参議院での“国土保全に関する決議”,衆議院での“挙国造林に関する決議”を経て1950年(昭和25年)国土緑化推進委員会が結成され,村上は常任委員長を亡くなるまで15年間にわたって務める。“国土緑化運動の父”の名にふさわしく,全国植樹行事(植樹祭),緑の羽根募金運動,全日本学校植林コンクール,国土緑化運動ポスター及び標語のコンクールなど,村上の植えた事業の苗木は,全国の海浜,山林で,枝葉を広げ年輪を重ねている。

1964年(昭和39年)札幌からの帰途の航空機内で発病した村上は急遽入院し,3ヵ月後に還らぬ人となる。多忙な中でも引き受けた北海道サロベツ原野開発を目的とした調査委員会の委員として,現地調査に赴いた村上龍太郎。

“悠久な大自然,アイヌや和人の歩みのうつり変りを偲ぶかと思えば,ふと私の郷里瀬戸の浜辺を思い出したりしたのでした。”

“故郷の瀬戸の浜辺も思出ぬ 宗谷の岬の夏の海辺に”(以上,村上龍太郎記念出版会「村上龍太郎」)

桜井志島ヶ原の白砂青松が,去来したに相違ない。

(つづく)

文:穂積 薫


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