獺祭魚たる書斎から数冊を旅行鞄にしのばせ,避暑地での耽読。
定宿での思索と散策にふける至高の時間は,幼少期の本への惑溺を“読書の祝祭”として,あこがれ,追体験するひとときなのかもしれない。
“本を持って朝から勉強部屋に閉じこもり,食事に呼ばれても,夢を見ているような顔をしている…”
“こんな読書を普通の読書といえるでしょうか。また,こんな没入的読書を大人になって繰り返すことができるものでしょうか”
浅間山を眺望する軽井沢山荘を仕事場とした,小説家にして学習院大学文学部フランス文学科 教授 辻邦生(1925~1999年)は,このような読書経験を“懐かしい読書”と称し,自身の原体験で知り得た“小説の無頼の面白さ”について回顧を続ける。
“私の「懐かしい物語」たちが遠い無の彼方から想像力の翼で伝えてくれたのは,知識でも教訓でも真理でもありません。それは,この世のすべてを黒い袋に入れて持ち去ったあと,その代償として残していった面白さという快楽”
“「懐かしい本」たちが残していった楽しい生の戦慄であり,人生のどんなものにも代えがたい至福なのです”(以上,辻邦生「幼少の頃の読書の祝祭」)
こどもの頃から書物に囲まれた生活にあこがれ,旧制高校生のバイブルとされた倉田百三“愛と認識の出発”,阿部次郎“三太郎の日記”などを,中学生の頃に読み了えていたという辻。
“日本文学は古典から現代まで,好きなものだけだがほぼ中学の頃に読みつくした。(中略)現在私の身体のなかに染みこみ,精神を形成したものは,この時期に吸収されたと見ていい。二十歳以前に読んだものは身体に肉化するような気がする”
“和辻哲郎『古寺巡礼』『風土』,九鬼周造『「いき」の構造』『巴里心景』などに触れ,大和路の旅に出て,ひたすら日本文化に傾倒しながら,当時の国粋主義,軍国主義と一線を画し得たのは,やはり河上肇や野呂栄太郎を読んでいたからであろう。太平洋戦争を資本主義同士のぶつかり合いだと見るだけの視点は持つことができた”
“もっとも日本文化が破壊されるなら,それを守って死ぬことは自分の使命だと感じていた。しかしそれは軍人たちの軍国主義とは何のかかわりもないと思えるだけの距離は,つねに時代との間に保っていたようだ” (以上,辻邦生「乱読を重ねた旧制松本高校,寮生活時代」)
図書館での純粋な“読む状態”を謳歌したためか,現役での旧制高校への進学はかなわず,浪人生活を1年間送ることになる。しかしこの1年が,当時の学生たちの命運を分ける。文科志望の辻にとっては,なおさらであった。
“一番困ったのは,浪人して,受験勉強をしている昭和十八年秋に,徴兵延期制度が打ち切りとなったことだった”
1943年(昭和18年)10月2日“在学徴集延期臨時特例”(勅令第755号)が公布され,理工系,医学系,教員養成系課程などの在籍者を除く満20歳に達した一般学生・生徒の徴兵猶予は停止。同年10月21日には明治神宮外苑競技場にて文部省主催による“出陣学徒壮行会”が開催される。
徴兵猶予の適用を受けるべく,辻は急遽,理科に志望を変更する。
“生き残るには,何としても,物理・数学・化学を,付け焼刃ででも勉強しなければならなかった。召集令状と競争して勉強したのは,あとにも先にも,あの時だけである”
招集令状との競争に打ち勝った辻は,1944年(昭和19年)松本高等学校理科乙類に入学する。
“私は,一年浪人したおかげで,理科に切り換える余裕があったが,前年に合格していたら,文科生として,当然軍隊に入らなければならなかったわけだ”
“苦悩していたのは,前年度に入学した文科生だった。入学時には徴兵延期があったのに,それが途中で打ち切られ,やむなく軍隊にゆかなければならなかったからだ”
“戦没学生の手記のなかで最も胸を打つのは,こうした「やむなく戦場に駆り出された」学生たちの痛恨の記録である” (以上,辻邦生「若い日の私」)
戦地へ赴くことを免れた辻。“白樺のそよぐ高原”と“鋸歯状に峰を連ねるアルプスに憧れた”松本で,読書と山行に横溢した青春の日々を過ごす。
“松本での旧制高校の生活は,知的な地平線をひらいた以上に,感覚の,魂全体の,領域を豊かに繰りひろげる場になっていた” (辻邦生「わが信州」)
“私はいまも,学校の裏手の林から,夜明け前に聞えてきた郭公の声を忘れることができない。それは松本で迎えた最初の朝のことだった。雨戸をあけると,畑の向こうに山が迫り,その山肌を覆った林に霧がかかっていた。その林から冷えびえした大気のなかを,郭公の声が,どこかに反響をともなった音で,聞えてくるのだった”
徹夜での読書にふけり,授業をサボることもしばしば。とりわけ傾倒したトーマス・マンが,ギムナジウムを二度落第した系譜をたどり,同じく2回ドッペルことになった辻は,1年後輩の北杜夫に卒業を追い越されてしまう。しかし,その機運もあって,同時期にインド洋,満州などの戦地で敗戦を迎えた学徒兵たちとは,異次元の世界に身をおくことができた。
“徳本峠を越えて上高地に出たとき,私は松本高校で学ぶ幸福をしみじみ感じた。期末試験が終わってすぐアルプスに登れるような特権は,戦争の激しくなっていた当時,ほかの場所では享受できなかったからだ” (辻邦生「三俣蓮華岳への思い」)
かようになつかしむ辻ではあるが,己の運命に悲嘆し出征していく仲間たちと,盃を交わし,吐露する言葉を受けとめた記憶が,作品にも影を落とす。
“思えば,私たちは戦争の<死>の体験の中に生きた世代である。その中で,単なる文科・理科という制度のフィクションが,人の生を左右する残酷さとか,その犠牲になった者の苦悩とか,犠牲になった友達への無限の悲しみとかを,若いさなかに,骨の髄まで知った世代なのである”
“青春後期は,死への親近感から,いかに生を取り戻すかが,一つの中心課題だった。それが小説を書くまでの私の生活の主要気分であり,小説でも,それを多く書いている” (以上,「若い日の私」)
1919年(大正8年)に創設された松本高等学校は,新潟,山口および松山の各高等学校とともに,ネームスクールのさきがけであるが,幻のナンバースクール“第九高等学校”としての可能性も含め,開校までには波乱の経緯を有する。他県および長野市との激烈な誘致合戦に三度目の正直で勝利をおさめた松本市の悲願の結実であった。
1899年(明治32年)高等学校の2校新設が決まると,長野県も名乗りを上げたものの,第六高等学校は岡山市(前文部大臣 犬養毅の出身地),第七高等学校は鹿児島市(当時の文部大臣 樺山資紀の出身地)に,それぞれ軍配が上がる。
1908年(明治41年)第八高等学校が名古屋市に設置された後,第九高等学校の新設が決まると,再び熾烈な誘致戦に挑んだ長野県は,内定を勝ち取る。しかし,桂内閣の退陣にともない,この内定は無期延期の憂き目にあう。
1917年(大正6年)4校増設に際して,新潟,山口および愛媛の3県が県庁所在地への誘致に成功し,新潟高等学校,山口高等学校および松山高等学校の創設が決まる。
3度目の誘致が奏功した長野県。今度は,松本市と長野市による宿敵同士の決戦を経て,松本市が勝ち星をあげる。
かようにして,新潟,松本,山口および松山に,官立高等学校が創設される。
内定までおりた“第九高等学校”の校名は,もはや名乗ることを許されず,新設校は,ネームスクール(地名校)として,全国に増設されていく。
四国には,官立の3年制高等学校が2校新設され,松山高等学校につづいて,1923年(大正12年)高知高等学校が開設される。
“北の弘前,南の佐賀,なかをとりもつ三松校”
“流れ流れて落ち行く先は,北は弘前,南は高知”
松本,松江,松山および高知の各校は,弘前,佐賀とともに比較的入学しやすい高校との世評を詠んだ替え歌である。都落ちの自嘲をにじませつつも,ネームスクール生の気概と愛校心を込めて,詠い継がれたのではなかろうか。
辻が,信州の高原,北アルプスに憧れて松本高等学校を選択したごとく,俳句をたしなむ青年が,松山高等学校の門をたたいた。1923年(大正12年)に結成された“松高俳句会”があり,後の国文学者 西垣脩(大阪府立住吉中学校時代から句会に参加)のごとく,受験の際の口頭試問で“「松高を選んだのは俳句修行のためだ」と答えて試験官を驚かせた”との逸話もある。同中学からは,永野萠生,茨木童子も入学し,松高俳句会の“住吉中学トリオ”とも呼ばれた。
“松高の俳句会は,学生俳句活動として全国的にも稀有な存在であった”(井上ミツ「西垣脩と俳句」)
松本高生が,上高地,北アルプスを遠歩したごとく,松山高生は面河渓,石鎚山を探勝した。
“面河渓の探訪は渓流沿いの道を歩いて難行したものと思われる。終点の宿の二階で騒いでいたら,一階に知事さんが見えているのでお静かにと言われ,こちらは大臣の卵だ文句を言うなと誠に意気軒高だった”(第11回文甲卒 浦上恒右衛門(松山高等学校同窓会編「真善美」))
松高俳句会に2年生から参加した安藤光雄(号“未央”,香川県立三豊中学校出身)は,1931年(昭和6年)秋の面河渓旅行をしたためている。
“土曜の放課後すぐに寮を出て海抜千七十米からの黒森峠をへて面河へ向ひました。その晩は渋草で一泊して翌朝嵐の様な谿谷の音を後にして面河へ向ひました”
“路々錦を着て荘厳なる山川の景に嘆美の聲ををしみませんでした。やがて面河の最も壮大なる関門に到りそれより十一丁亀腹に到る間両岸たゞ紅葉,あゐよりもなほ青き五色河原の水,ぎゞとして頭上を圧する大岩石,実に雄大至美なる自然の饗宴をほしいまゝに致しました”(以上,安藤嘉哲 編「未央追悼録」)
石鎚山(1,982m)系に源を発し土佐湾にそそぐ仁淀川は,吉野川,四万十川に次ぐ,四国第3位(流路延長124㎞)の河川。高知側から遡行して愛媛県側に入ると面河川を名乗る。松山高生にとって誂え向きの遠歩先たる面河渓は,面河川(仁淀川)の上流部,上浮穴郡久万高原町にあり,亀腹,関門などの奇岩,断崖,瀑布など,景観の変化に富む名勝。
この四国有数の景勝地は,高知高生にとっても格好の旅行先の一つ。石鎚登山の行路であり,休暇中の避暑地でもあった。やはり,松本高生にとっての上高地,軽井沢を彷彿させる。
1939年(昭和14年)7月末から8月上旬にかけて,面河渓を避暑地とし,宿舎“渓泉亭”にこもり,読書三昧に徹した高知高生がいた。辻邦生と同じく,1年の浪人を経て入学するも2回ドッペル。この落第生をして,学究の徒へと覚醒させたのが,2年生の夏の“面河経験”である。
7年後,刑の執行間際に28年の生涯を振りかえり,“私の一生の中,最も記念さるべき”時として,“面河経験”を書き遺すとは,往時,寸毫も思い得なかったであろう。
辻邦生もまた,“戦没学生の手記”を通じて,この短折した学徒の“痛恨の記録”を読むにいたったのであろう。
(つづく)
文:穂積 薫
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