高知高等学校の流れをくむ高知大学朝倉キャンパスにある学術情報基盤図書館(中央館)。蔵書約517,000冊の中に,“木村文庫”(465冊)がある。戦前に発刊された国富論(アダム・スミス),ローマ人盛衰原因論(モンテスキュー),西洋近世哲学史(安倍能成)など,経済学,社会学,歴史,哲学などの蔵本の中に,蔵書番号324“経済原論”(小泉信三,1937年)がある。
この“経済原論”の表紙裏面には,メモ書きが残る。
“恩師塩尻公明先生に指導を受けて経済学第一歩として此書を読まむ。昭和一四年七月二〇日,面河にて。ランプの光に照らされ乍ら記す” (中谷彪「面河渓に木村久夫を尋ねて」)
母校 高知高校の図書館の充実を願い,“若き社会科学者の輩出のため少しなりとも尽くす所あらば,私の希望は満たされる”と,刑の執行に先立ち,恩師の教授 塩尻公明に465冊の寄贈を託したのは,同校に5年在学した木村久夫である。
1918年(大正7年)現在の大阪府吹田市に生を享けた木村は,1932年(昭和7年)大阪府立豊中中学校に入学。外国人英語教員との公私にわたる親交を深め,英語は得意科目となる。木村の英語力を物語る中学4年時のエピソードがある。
“数学の答案用紙に解答を何も書かずに提出したのだ。しかし白紙ではなかった。解答欄にはその時間に数学の教師が話したことが,全部英語で書かれていたのである”(以上,山口紀美子「奪われた若き命」)
この英語力が,木村の人生に悲劇的な終止符をもたらすことになる。
豊中中学を卒業後,1年の浪人を経て,1937年(昭和12年)木村は高知高校(文科甲類)に入学したものの,奔放な学習・生活態度により,1年生を落第する。もっとも,この留年のもたらした巡りあわせにより,木村は,法制と経済の各講義を通じて,恩師となる塩尻公明と出会う。塩尻は木村の放蕩ぶりについて回顧する。
“勉強も手につかず,写真を写してまわったり,喫茶店めぐりをしたり,酒を飲んで町を歩いたりしていたので,学校当局からは無頼の生徒と見られ,友人や町の人々からも放逸の生徒と見られていた”(塩尻公明「或る遺書について」)
このような木村をして学問研究に目覚めさせた,教授 塩尻公明(1901年~1967年)は,第一高等学校,東京帝国大学法学部政治学科を通じて,河合栄治郎の影響下に社会政策,社会思想を研究。J.S.ミルを専門とし,戦後は神戸大学教育学部に転じ,教育思想,宗教論なども講じる。
1939年(昭和14年)塩尻は,前期の授業を通じて,木村に読むべき数冊の書物を紹介する。その中の一冊に小泉信三の“経済原論”があった。
“思い込んだら一直線という性格の久夫は,同年五月に同書を購入するや,数冊の専門書を携えて,夏期休暇に入って間もない七月二〇日から八月上旬にかけての約一〇日間,石鎚山の山麓にある面河の宿「渓泉亭」に閉じ籠った”
7日間の苦闘の末,“経済原論”を読み了えた木村は,同書の裏表紙に,恩師にならい所要時間などのメモを残す。
“七月二七日読了 渓流さゝやく面河峡に傾く渓泉亭に於て,投下労働約三〇時間,第一編,第二編は平易なりしが第三編は未だ認識浅き今の私に取っては難解であった。第三編は他日再読する必要と価値とがある” (以上,「面河渓に木村久夫を尋ねて」)
塩尻に心酔した木村は,師の手法を真似る。宿にこもっての読書と研究への専心,購入日,投下時間,感想などの書物へのメモ書きは,木村自身のスタイルとしても血肉化する。メモ書きは蔵書の見返しに多く記されているが,本文の欄外余白にも残されている。
仁淀川上流の面河での覚醒の後,木村は,物部川を遡る渓流の里,猪野沢温泉(現在の高知県香美市香北町猪野々)を定宿として,経済学研究に傾注する。
猪野々は,歌人 吉井勇(1886年~1960年)が,1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)に高知市内への移住を経て,京都 北白川に転居するまで,約3年におよぶ隠棲の地である。同じく猪野々に長逗留した木村は,吉井勇の影響のもと,自らも歌づくりに励み学内誌にも発表する。
端緒となる“面河経験”により,“自分の目指すべき道は学問研究の道であると決断するに至った”木村は,1942年(昭和17年)京都帝国大学経済学部に入学する。塩尻公明との師弟の交わり,経済学徒への第一歩を踏み出した面河渓泉亭での読書,猪野々での研究と歌詠みなど,青春の記憶を鞄につめて,5年間の高知生活に別れを告げる。
しかし,すでに24歳に達していた木村。京都での学究生活は,半年しか許されなかった。1942年10月には臨時招集により陸軍中部第23部隊(大阪)に入隊することになる。
このわずか半年の京大時代に,下宿先としていたのが北白川である。同時期には吉井勇も同地に居住していたものの,生前,二人が出会うことはなかった。
1年後の1943年(昭和18年)10月,木村はインド洋ニコバル諸島のカーニコバル島に,海軍から陸軍への要請にもとづき,民生部所属の通訳として,コンサイス英和辞典を携行して赴任する。得意の英語力をかわれてのことである。
このインド洋の孤島で,終戦直前の1945年(昭和20年)7月下旬から8月上旬にかけて,スパイ容疑で島民85人が陸軍によって処刑される事件が発生する。
“英語も非常に熟達して,軍中で一,二を争う有能な通訳となった。しかしこのことはまた彼の不運の原因ともなった。(中略)終戦の直前に島民中のスパイ検挙が行われて多数のインド人が処刑されたとき,その逮捕や取調べに関係しなければならなかったことは,彼にとってとくに不利な事情となった。彼に命令を下した上官たちの当然に荷うべき責任の多くが,彼らの卑怯な言い逃れや木村君の遺書に現われているような事情などによって多く彼の一身に負わされることになった”(「或る遺書について」)
本件島民処刑事件に関し,1946年(昭和21年)3月15日シンガポール戦犯法廷は,木村に死刑判決を宣告する。
その時を待つ身となった木村に,奇跡の一書との再会がもたらされる。わずか半年の京大時代に,北白川の書斎でも読み,講義も受けた田辺元の“哲学通論”(第6版 岩波書店 1937年)を偶然にもチャンギ刑務所内で入手。高知を遠く離れた独房で恩師 塩尻の手法に則り,奇数頁の“余白”には手記を書き遺し,偶数ページには主に短歌を詠んだ。
余白に手記を留めた後,木村は執行直前にあらためて遺書を記す。
“死刑の宣告を受けてから,計らずも曾て氏の講義を拝聴した田辺元博士の「哲学通論」を手にし得た。私は唯に読みに読み続けた。そして感激した。私はこの書を幾度か諸々の場所で手にし愛読したことか。下宿の窓で,学校の図書館で,猪野々の里で,洛北白川の下宿で,そして今又遠く離れた昭南の監獄の一独房で,(中略)私は独房の寝台の上に横たわり乍ら,此の本を抱き締めた”(遺書)
手記と遺書の一部は“日本戦没学生の手記 きけ わだつみのこえ”(東大協同組合出版部 1949年)に収録され,世人の知るところとなる。
河盛好蔵は“きけ わだつみのこえ”の読後感として評する。
“木村久夫君の残した手記は「ソクラテスの弁明」にも劣らぬほど私を感動させる。私は幾度くりかえしてこれを読んだことであろう” (河盛好蔵「試煉の時」)
木村は,判決を覆すべく渾身の努力を惜しまなかった。イギリス側に三度にわたって試みた“弁明”については,“きけ わだつみのこえ”からもうかがえる。
“私は生きるべく,私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽くした。私の上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ,それがため,命令者たる上級将校が懲役,被命者たる私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理である。(中略)判決の後ではあるが,私は英文の書面をもって事件の真相を暴露して訴えた。(中略)とにかく最後の努力は試みたのである”
“弁明”は,一度閉ざされた法廷の扉を開けることを果たし得なかった。木村は短命に散る己が人生を顧みる。
“私の一生の中,最も記念さるべきは昭和十四年八月だ。それは私が四国の面河の渓で初めて社会科学の書を繙いた時であり,また同時に真に学問というものの厳粛さを感得し,一つの自覚した人間として出発した時であって,私の感激ある生はその時から始まったのである”(以上,「哲学通論」の欄外余白から「きけ わだつみのこえ」に収録)
最期の地 昭南(シンガポール)で,“面河経験”をなつかしんだ木村久夫は,学究の徒として自著を後世に託し得ぬ無念を遺書にしたため,同年5月23日絞首台に消えた。
“せめて一冊の著述でも出来得る丈の時間と生命とが欲しかった。之が私の最も残念とするところである”
(つづく)
文:穂積 薫
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