学習院大学文学部史学科4年生の徳仁親王は,1981年(昭和56年)7月9日から2日間,芸予諸島を構成する愛媛県 弓削島を訪問されている。中世の荘園制度と瀬戸内海の水上交通の研究を目的とした視察旅行である。

尾道港を発ち弓削港から上陸され,定光寺を経て国民宿舎ゆげロッジに宿泊(現在はインランド・シー・リゾート フェスパとして営業)。
翌日は弓削神社,願成寺,高浜八幡神社などを視察され,弓削港から伯方島へと向かわれる。

林屋辰三郎による「兵庫北関入舩納帳」の上梓という偶然が重なって,実現をみた2日間にわたる弓削島視察旅行。徳仁親王にとって忘れがたい,学生時代の夏の思い出は,水運史研究の原点として,塩のごとく透明な結晶となっているのではなかろうか。

平安時代後期から室町時代まで存続したとみられる塩の荘園“弓削島荘”。後白河法皇の長講堂領を構成し,皇女 宣陽門院覲子(きんし)内親王に引き継がれた後,延応元(1239)年,覲子内親王から教王護国寺(東寺)に寄進される。

東寺領となったことにより,弓削島荘に関する豊富な史料が,後世に伝えられることになる。

8世紀からおよそ1,000年におよぶ,2万5千通にも達する古文書群「東寺百合文書」。弓削島荘に関する史料およそ300通が含まれている。

この史料にもとづき,1937年(昭和12年),論文「塩の荘園「伊予国弓削島」」を著したのが,中世史学者の清水三男である。清水はこの論文で,弓削島荘の土地の分割支配,塩の商品化について論じる。弓削島荘が“塩の荘園”と称されるのは,この清水論文が契機となる。

戦後,シベリアの捕虜収容所で落命した清水の業績を編纂し,論文集「中世荘園の基礎構造」として刊行したメンバーの一人が,林屋である。京都第一中学校,第三高等学校,京都帝国大学文学部史学科と,清水の直系の後輩として歩んだ林屋は,特に大学院生時代に,先輩の清水が研究室での“先生”であったとふり返る。

この弓削島荘に関する史料を含む,東寺に遺る古文書群を「東寺百合文書」と称するのは,次の経緯による。

“加賀藩の第5代藩主だった前田綱紀が百個の桐箱を文書の保存容器として東寺に寄附し,その後はこの箱に納められて伝えられてきたことから,「東寺百合文書」と呼ばれるようになりました” (「京都府立京都学・歴彩館 東寺百合文書WEB」)

学問研究を奨励して,近畿を中心とする社寺から古文書類を蒐集し,新井白石をして“加賀は天下の書府”と言わしめ,“東の徳川光圀,北の前田綱紀”とも称された綱紀の治政(1645~1723年)を経て,茶商“林屋”が金沢で創業するのは宝暦3年(1753年)のことである。

徳仁親王は,学習院桜友会での講演の結びに,次のメッセージを同窓に託されている。

“私の専門としています海の道としての瀬戸内海は物資の流通という面からだけ見ても,人と人とを結ぶ重要な役割を果たしていたのではないかと思います”

“フェルナン・ブローデルはその著書「地中海」で,地中海の歴史をひもときつつ,海は人と人とを隔てるものではなく,結びつけるものであるということを述べております”

“今日の私の話の中から,人と人を結ぶ海の道の果たしてきた役割の重要性を少しでも感じ取っていただければ幸いに存じます”(「桜友会報[No.86]」)

天下の書府で茶商を営んだ“林屋”の裔が,京都の古書店で偶然に手にした古文書櫃がとり結ぶ,徳仁親王と“塩の荘園”との物語。徳仁親王と弓削島とは,親王の訪問から4年後,思いもよらぬ縁で再び結ばれる。

(つづく)

文:穂積 薫


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